昭和52年07月07日 朝の御理解



 御理解 第54節
 「徳のないうちは心配する。神徳を受ければ心配はない。」

 心配のないと言われる、心配のないほどしの信心とかおかげというのはね。心配をさせない信心。親神様にも心配をさせない、親にも心配をさせない、周囲の人達にも。ははぁあの人はもう大丈夫と言われるような私になる事なのです。でなかったら自分自身が心配もないおかげが受けられない。例えば歌舞伎十八番にありますようにあの勧進帳。弁慶と富樫の問答で有名なお芝居です。まぁ色々の問答の末のこれは正しく義経主従だと言う事が分かります。
 けれども弁慶のいわば、忠義一途のその心に感心していうならば、富樫が関所を通らせます。いうならば勧進帳の空読みです。ね。それは関所を越えただからまぁ、義経主従もほっとするですね。それこそあの勧進帳の義経があの舞台の方向かずに、向こうの方背中を見せてますよねお芝居。そしてその通してくれると言った途端に、はぁっとこう肩を落とすもう誰も気が付かん所がありますけれどもね。もう義経は背中で芝居をすると言われております。
 けれどもそのほっとする、する程に安心が例えできましてもね、どこまで矢張り空山伏ですからね。まだ行く先々も矢張り不安であり心配である。なら今度はそれを忠義一途にもし万一なら、頼朝からのとがめがあった時には、自分が言うなら腹のひとつでも切腹してからでも申し訳よういう負担を、富樫に与えるでしょうね。それはお芝居としてはそこのいわば腹芸と言う所が素晴らしい事ですけれども。
 富樫にも心配を掛ける重荷を掛けるだけではない、義経主従も矢張りそこはほっとする程しの所を通るけれどもです。もう次の瞬間からまた不安。と言う様にね、同じ信心をさせて頂いてもね、それこそ神様に重荷をかけ、親先生に御心配をかけてと言う様な私信心から、いうなら勧進帳の空読みではなくて、本気でなら本当にですね堂々と、その関所が渡られる様な一つおかげを頂かなければいけんて。ね。まぁああして一生懸命お願いをするからおかげはやられぬだけれども。ね。
 まぁ蓮根食うてから神様がおかげを下さると行った様なのは、丁度富樫が弁慶主従を本当のものではないのに、本当のものとして通した様なものです。義経主従も矢張り不安。ね。それから通した。富樫自身も矢張り不安。信心の上にもね、それと同じな所を繰り返し繰り返し通っておる人が、沢山おると言う事なんです。ね。成る程ご無理を言う一生懸命になる。先生広大なおかげを頂きましたと。まぁその時改まったお願いもしとった、けれどもまたそれがすぐに戻る。
 元に戻って同じ様なおかげの繰り返し。ね。そこでなら合楽でのなら勧進帳というならば合楽理念だと思うんです。ね。それこそ空読みではいかんです。合楽理念を本当に愈々マスターして、合楽理念に基づいた生き方をすれば、絶対の道が開かれるというのだから。ね。おかげも頂かれると同時にお徳も受けられる。生神への道だと。しかも絶対の道だと言われるのだから。
 私は本当に合楽理念をまぁ、本気でいうならばマスターして、なら合楽理念に基づいた生き方をさせて頂く時にですね、神様も喜んで下さるおかげ、私共も安心が出来れるおかげ。そういう信心をです私は教祖は仰っておられると思う。徳のない間は心配をする。身に徳を受ければ心配がない。昨日の昼の一時の研修の時から夏期信行も矢張りここでしたね。昨日のは結局どう言う事でしたかね。
 『損得を任せ、生死までも神様任せになれた時の状態を心配はない時である。神徳を受けると言う事は神を信じ神に信じられる事である。私共の場合あまりに心配が心配な事が多い。そこに信心の精進が求められるのである。不思議に不安から安心への世界が開かれる。闇の世界から光明の世界がに移りする事が出来る。既に神徳の世界である』。これはどこまでも合楽理念に基づいた生き方。私共にはあまりにも心配が多いとここにあるが。確かに安心しておれやってもそれは本当の安心ではない。
 結局信じ信じられる中。神様と私共の中にそれを生まれきゃならん。これはここん所の角度を非常に書いての御理解ですよね。今日の御理解とまた。けれどもやっぱり内容としてはここん所になってくるんじゃないでしょうか。不安から安心の世界がね。闇の世界から光明世界に移り住む程しのおかげ。ね。そこにいわゆる信心修行が求められる。どういう信心修行かというと、参よります拝みよりますと言う様な修行じゃなくて本気で合楽理念を元にした生活、信心ができると言う事である。
 昨日私はある方のお取次ぎをさせて頂いた。そしたらあの廊下を何ですかあれは。某雑巾とちうんですかね。あれを一生懸命こうしよなさる。所がその某雑巾の先についとる雑巾ちうのがもう、もうにしめごと汚れとるとじゃ。で水つけてざぶっと洗ってからこうやってしとなさるけども。渇いた後が真っ白なって行く所を頂いた。信心しよります。拝みよります。ね。磨きもおりますと。いかにも自分が磨いた気がしている訳です。お掃除をした気がしている訳です。
 けども渇いた時にはもう白になっておる。これではおかげが何時もどうどう回りだと言う事なんです。昨日企画の時の会合があった後に終わってから文男さんと高橋さんが私の部屋にやって参りました。(?)(?)足をもんであの御用をさせて頂いてまぁ、丁度一時半まででしたでしょうか。まぁ信心話に話がした事でしたけれども。昨日は丁度六時から今度十年祭に記念出版を致します。それに今させて十年間掛ってこの教典が丁度二回りする。丁度二回り。
 だからそれが全部書き留めて、いわゆるミニ御理解ですね。合楽名物のいうなら夏期信行にだけ頂く御理解を十年分纏めて初めてその教典が二回りした。それを全部纏めてまぁ、御理解感話集と言った様な教典感話集と言った様なものを作ろうと言うので、昨日印刷屋さんがみえて色々打ち合わせがありました。その時にこういう見本の本を作ったらどうでしょかというて、本の様な型を色々もって来てまぁ、結局私があのバイブル型です。いわゆる聖書型のに大体決めましたけれども。
 これを沢山作ってあの教徒社で売って貰ったら、沢山作られると値段も安く出来るからと若先生が言うんです。けれどもねこれはまぁ、合楽の信心のほんなもうほんなちょこっとです。それはもうこんなに厚いバイブルよりも厚い本が三百何十ページになるからみごとな本が出来るでしょう。けれどもそれはほんな合楽の信心の私が御心眼に頂くのは『鯨が泳いだちいうて。鯨があのシリッポンとこだけを水にこう出しておる所を頂くわけです』。ほんな鯨のシリッポンだけを見せるのがこの今度できる感話集なんです。
 本当は私が二十八年間解って来た所謂、あの全部収録されておるあれが合楽の信心なんです本当は。しかもあの即興的にですね。皆さんが御祈念を始めると同時に私は教典を開くんです。そしてあの三十分の間に私がこう頂いた事を、ささぁと書いてもう必ずと言うていい程これ一杯ですね。黒板の上に書きます。いわゆる即興的な御理解を頂いたんですから。その一部分しか説いてないのです。矢張り教祖の神様の信心の深さ広さと言う事にも只々驚いてしまうと言った様な所からでした。
 本部の方では金光大神の生きられ方を求めておる、求めていっておる。ね。「金光大神覚」えとか「金光大神」とか色々な、あの本部で言われる三部作あたりの勉強をして、金光大神の生きられ方を追求する。合楽では金光大神が教えられた事をに追求する。だからそう言う所がやっぱ一つにならなきゃいけない。けども中々金光大神の生きられ方というものが「金光大神」になんかに現われておりますけれども。ならそういう金光大神の生きられ方の方が、私共凡夫で真似れる筈がないと言う事。
 真似た所でなら実意丁寧のばけものの様な事になって来ると言う事。内容がないのだから。ね。金光大神がのような時にこの様に生きられた。と言う事をいかに追求した所でです。私共の生活の上にならぴったり来る様な事がない。そういう意味でなら御理解というものは、ぴんからきりまでの信者を当てに、目当てにしてのお解りになった御教えですからね。しかも天地の親神様からね。
 天地の親神様からおかげを受けた事を話にして残しておかれるこの御教えというものは、もうそれはそれはなら私が二十八年説いておるけれども。解き明かせていない。昨日頂いたばかりの御理解が今日がこの様に変わったふうに説かれとるですからね。限りがないのです。その限りのない程しの、偉大な教祖様の御教えというものを、説き明かすと言う事は、私の一生掛ってもまだ出来ないでしょう。けれどもそういう内にです、ならばここに本当の助かりの理念といわれる所の、合楽理念というものが纏められた。
 そして合楽理念に基づいてさえ行けばいわば、不安のない心配がない生活にも入って行けれるという。しかもこの生き方ならば神様から神様に負担をかける事もなからなければ自分達も不安のないね、それで勧進帳で申しましたようなね。通っていく者の又は通す者の喜びであり安心であると言う事なんです。所が私共の信心というものを振り返ってみるとです。昨日私がお取次ぎをさせて頂いた型だけの事ではない。お互いが磨いた積りでおるけれども、一向に磨き映えがしない。
 磨いた積りでおるやっぱりこうやりよる。けれども肝心要のその雑巾が真っ黒に汚れたままでこうやって拭きよるけんで、渇いたとこは後は白なっていく。まぁだ同じ事と言う事になるです。そういう信心からその一つ脱却すると言う事。昨日も私その大里さんという印刷屋さんが来ておりましたから、お神酒が好きですから、お神酒を下げてそれで私もちょっと頂きましたから、横になって休ませて頂いておる所に、こういう本を手本にもって来ておりますからと言って、誰やったかな。
 秋永先生か。あんたやったか。秋永先生やった。もう覚えんけど。三、四冊もって来たです。でその中にその心霊科学のなんと恐ろしい、心霊科学のなんとかと言う見出しで同じその本を一緒に持って来てました。大里さんが本屋から買って来てる訳ですね。そしてそのこういう形ではどうですかと言う訳なんです。私それにちょっと引かれましから、ちょっとならこれ一冊貸しといてくれんのと言うて、その私それを読ませて頂いたら、いわゆる幽霊写真がいっぱい写真で説明してありました。
 内容はこまごまして分かりませんけれども、ね。あの心霊科学ですよ科学です。どうしてその魂の世界があると言う事をそれがあの例えば写真の中にその幽霊の写真が写ったりね。確かに藪その景色だけを写した積りであるのにそこにはっきり顔が写ったり。そういう写真が一杯その本に載っていわゆる、心霊科学をまぁ説いて。まぁ言うならば魂の世界があるとか無いとか、色々の人達が非常に好奇心を持つようなまぁ、結局売りたいだけの本でしょうけれどもね。
 それを見せて頂きながら私が思わせて頂いた。昨日高橋さんと文男さんに話した事でしたけれどもね。合楽理念を基にするとね、この心霊科学なんかちうものは無くなってしまうんです。いやそのそこまでの学問づけておるから、あるろうばってんもう価値がない事になるんです。魂の世界がある事も事実ですからね。けれどもそこに写っておるその幽霊の写真というものは、全部天地の親神様の御演出だと言う事なんです。それこそ自然界には千年万年掛っても丸うせずにはおかんという働きがある。
 その親神様のお心がですね、悪い事をするとこういう幽霊からいつも心が苛まれるぞと。本当に幽霊ちはおるもんだぞと。魂の世界ちは間違いなくあるのだぞと。ね。だから是を見ただけでも、この世で本気で魂を清める事に専念しなければいけないぞと。千年掛っても万年掛ってもです、人間にはその事を分からせようとする働きがあの幽霊写真なんです。だから言うならばお芝居で所謂、お岩の幽霊と同じ事で、怖いものでもなからなければそれを恨みを持ってなら、私共に迫って来る事も出来ないものなんです。ね。
 だから天地の親神様の親心というものが分かるとです、ああ言う事は言うならキリスト教も仏教も言うならば、様々な新興宗教もですね。もう皆んな引っくり返ってしまうほどしの内容が、合楽理念の中にあると言う事なんです。これは皆さん本当の事ですからね。合楽理念をもう少し本気で頂かにゃ駄目なんです。ね。死んだ魂がです恨み骨髄に恨みをこの世に残しておるからと言うて、そげなん働きが反対な働きもう出来らんにゃ筈です。ね。所謂、神様がもう世界の津々浦々に言うならば。
 野蛮国とこには野蛮国的そういう怪談的なものがありますやっぱり。また怪談的なそういう言うならば宗教もあります。けれどもそれはどこまでも、人間が立ち直れるようにこの世に生を受けた人間が、もう又生まれ変わって来ないで良い様に言うならば。この世には愈々魂を清めに来ておるんだぞという、神の心親神様の心をその様なもの現していうならば、時々どこででも幽霊を見た。それは事実なんです。嘘じゃない。けどもその幽霊たりや神様の演出でありトリックなんです。ね。
 だから人から恨まれる様な事はしちゃならん。また恨みなんかを残してあの世に行く様な事はあっちゃならんと人間が気付く様にしてある神様の御演出に過ぎないのだ。ですからもうその心霊科学なんかというものは、もう全然価値を失ってしまう訳です。ね。そういう意味の話は、昨日は文男先生がいろんな話からですかあの。お得意さんに大変難儀な問題が事をお届けさせて貰って、その方は素晴らしい有名人です福岡の。近い内にテレビで非行少年のなんとかという、そのお話をなさる事になっておるそうです。
 しかし不思議ですね自分とこの一人娘が書置きを置いて出て行ったそうで。もう三、四日になる。それであんたが参よる金光様にお願いしてくれ。だから金光様の事をひとしきり色々合楽の話をさせて頂いたらその人はいうならば、金光大神と言う事が教祖ならばそのなんとかちったげな。なんちうたかな。その人は中興の祖に価いする人バイその人が言わしゃった。それはもう大変な学問をした人ですからね。話を聞いただけで分かるんです。只解ってないのは私と皆さんだけです。ね。
 そこから色々考えてですね。ほんなこてそげんいや私は中興の祖のごたるの、ちうて話した事でした。まぁ二人間だからの話です。ね。三千年に一度しか出らないとかね。天上界においたら弥勒菩薩だけれども、この世においては布袋和尚。今の布袋和尚は合楽の大坪だと言う様な御理解を頂いた事があるでしょうが。どんなに考えてもなら例えばあのビリグイ布教の事なんかでも。
 是はもう前代未門の話なんです。そういう働きとか力がなからなければ出来る事じゃのないです。それをいえわば実証しとる様なもんです。ね。ですからそういう間違い、いうならばですよ。もう間違いのない人が言うておる事であるから、どうでもお互いが合楽理念の行者にと言う事は、大変厳しいようですけれどもマスターして、そして合楽理念に基づいた生活を本気でさせて頂かなければならない。
 でなかったらいつまで立っても安心は生まれない。いつまで立っても親神様に心配のかけどうしでおかげを頂くと言う事になる。親先生に重荷を掛けるばかりのおかげになるね。なら掛けられた方も不安思いならね、おかげを頂いた方も何時もいうならば嫌な思いで、ではなかろうかと私は思うんです。ね。なら合楽理念を基にしていくならば絶対の信心、絶対のおかげ、絶対の徳といわれるんだからね。神様こんならばいうなら。
 弁慶がの勧進帳の空読みではなくて。堂々と合楽理念が説かれ合楽理念を自分のものにしていわば、読み上げるならば、さぁどうぞと言うて通させて頂けれる所なんです。そういう意味で今日はね徳のない間は心配する。身に徳を受ければ心配はない。身に徳を受けると言う事はもう愈々是に極まった。合楽理念の言わば生活の上に現して行く以外にないと言う事をです、ならもう絶対としてとこう書いておるのですからね。本気でそういう信心を身に付けさせてもろうてね。
 いうならばふいた所やら、はわいた所が又もう散らかっとるという時には所謂、最後の締めくくりが悪く掃わいた事は掃わいたばってんゴミばとっとらん捨てとらんもんじゃけんまた風で散らかっとる。確か拭いたばってんこの様に拭いて(?)(?)渇いた所がまた白なっていきよる。そう言う様な事ではなくて本当に心に光の出る様ないうなら信心の進め方。そういう信心を身に付けて行きたい。
   どうぞ。